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  • 執筆者の写真泉州 閑爺

第3話 鯖江市 三里山 波打岩 伝承を検証する。

更新日:2023年10月13日


1. 鯖江市と越前市にまたがる三里山(標高346m)、その北側山麓に鎮座する古社、加多志波(かたしば)神社の社伝には、「三里山の波打岩には、太古にはその岩壁まで波打つ海であった」との伝承が残されている。

即ち、「鯖江の地名は、太古の昔、海湾入江で、且つ、鯖の豊漁地であったことに由来する」とのサバ読み仮説の証左となる貴重な伝承である。

    また、加多志波神社は、その断崖巨岩である波打岩と波つき岩に接した地形的鎮座位置と、上記伝承から、その創祀が、なんと6千年以上前に遡る海洋と巨岩磐座を神格とする縄文神道起源と比定できる程に重要で、大切に保存・継承したい悠久の歴史を秘めた国宝級大古社であると言える。

    しかしながら、この貴重な伝承を根拠の一つとして、鯖江や鯖波の古代は「海湾入江で鯖の豊漁地であった」と理論的に唱えられる郷土歴史研究家や専門家にはまだ出会えていない。


2. 地理的には、三里山北側に面している「波打岩」、「滝の岩壁」や「波つき岩」は、標高約80~180mの山稜断崖に露出していて、その標高レベルまで波の打ち寄せる海岸線であったとは想像しがたい。

    しかしながら、P/Cソフト「スーパー地形」で海進シュミレーションをしてみると、縄文海進時代の約7~4千年前の鯖江の入江の海水面と三里山の断崖岩壁波打ち面は、同じレベルで水深3~9mの海面が迫っていた様に表示される。 

従い、現在に至る約6千余年の期間に、右のイメージ画像で説明の通り、三里山の上部谷間より流出する表層土砂が、岩壁面の低位波打ち部(岩壁裾部)に堆積し扇状地を形成した。 その扇状地が更なる土砂の堆積で上昇拡大した結果、現在の標高レベルの山稜(扇状地)上部に岩壁面が露出した形で存在していると地質学的にも十分説明可能と考える。


3. 波打岩の存在について、川島町の古老が言うには、昔、子供の頃は町内集落から見えていたが、現在では更新の無い樹林ですっかり覆われ見えなくなっていて、地元民の過疎化も影響し、波打岩や波つき岩の存在やその伝承を知る地元民も少なくなってきていると。

    加多志波神社は、縄文起源の悠久の歴史を有する大古社にもかかわらず、保護・保全されるべき文化財の指定は無く、その運営は川島町民に委ねられている模様。お社は叢林(そうりん)に覆われ人目を憚るようにひっそりと佇んでいる。


4. この遥か縄文起源と比定出来る「波打岩と加多志波神社の伝承」は、越前の地が、海湾入江の漁労民族であった時代から、湖沼、平原に変化した農耕民族時代に至るほぼ6千余年の時空を超え、今日に語り伝えられている世に稀で、大いに誇り語ることができる貴重な伝承と考える。

また、鯖江まちおこし企画「今日は38、鯖の日、鯖江の日」に絡め、鯖江発祥の「鯖食文化」と共に、その証左の一つである「波打岩と加多志波神社の伝承」は、観光コンテンツとして世に広く見える化し喧伝できる筈の古代歴史文化遺産でもある。 

    故郷の子供達にも、故郷の古代歴史遺産に対する好奇心と誇りを芽生えさせる情操教育の一環として、地元の教育の場でも多いに語り伝えて欲しいものである。

「38、鯖の日、鯖江の日に、皆で子供達を連れ、加多志波神社に参拝し、波打ち岩・波よせ岩から三里山の三つ岩に登り、古の九頭竜湾跡や三国湊を望みながら、浜焼き鯖をたべよっさ!」 で、こんな話もあるよと、鯖江の地名由来を子供達に語り伝え、縄文時代の鯖江に想いを馳せるのも素晴らしい企画ではないだろうか?


5. 因みに、地元北中山語り部の会が平成30年度に編纂した「北中山の歴史・伝承(語り部教本)」の「波うち岩」にも、本件仮説の貴重な傍証となる「波打岩と加多志波神社に関する信憑性ある伝承」と「自然科学的に正に的を得た考察」が記述されている。

    <以下、北中山の語り部教本第11項の記述抜粋>

『三里山の中腹に大きな岩があります。昔は附近一帯が海でこの岩のところまで海水が来ていたといわれ、その岩と大きな断崖は「惹ぶる神の威光を現すもの」として、人々は畏敬の念を持って祭壇を造り、お社を建て祭って来ました。それが加多志波神社で「固し岩」カタシイワが「カタシバ」に転訛したものだといわれています。

三里山は「三つ岩」「波つき岩」「波うち岩」などが有り、他にも名前は付いていませんが同様の岩が広く分布しています。三里山の斜面は風化に強い「溶結疑灰岩」「疑灰角礫岩」などで成り立っているので、表土が薄く大雨による表土の流出が発生しやすく、谷筋では豪雨の時には「土石流」が繰り返し発生していたと思われ、山裾には扇状地が出来、住宅地となっています。 2004年の福井豪雨時の川島の土砂災害は象徴的な出来事ではないでしょうか。三里山はとほうもない長い年月経て今の姿を私たちに見せています。その山裾に私たちは故郷として暮らして、山の自然を守り、恵みを受けて幾久しく暮らしたいと願っています。』

                                  以上



     <第4話に続く>     泉州閑爺

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