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執筆者の写真泉州 閑爺

第17話 藤原氏族のルーツは 藤島

更新日:5月1日


奈良時代から平安時代にかけ、朝廷内で権勢を誇った公家の藤原氏一族のルーツは、越前の「藤島⇒“藤原”」であると、以下の通り、サバ読み歴史ロマンを物語ることが出来る。


1.  地名はある特定の土地につけられた固有の名で、ある特定の地域が,他の人に必要な固有の内容をもって伝える為に命名されたこと、更には、縄文語は現在の日本語とほとんど同じとする学説があることは第10話で説明した。 これ等学説に基づけば、森羅万象の個々を示し今に繋がる言葉、例えば、自然の植物名を示す「フジ=藤」や地形名を示す「シマ=島」等の呼称、更には、固有の地名を表す複合語の「ノ・ハラ⇒野原」や「フジ・ワラ=藤原」等は、多少の発音・音韻変化があったにしても縄文時代から存在した古地名であると比定出来る。

名字は、自分の所領や出身地である地名を名乗ったこと、また弥生時代以降には、部族や血縁集団を表す「氏」や役割分担を表す「姓」が、政策的に名付けられ、名字として伝承されたことは、第14話でも解説の通りである。


日本全国には、古代河川が氾濫・蛇行する過程で形成された中州島、自然堤防、後背湿地や淵の地形を、単に「シマ=島・嶋」や「淵・渕」と呼び、今に残る地名が各所に存在する。 

但し、一文字以上で構成する地名には、固有の特徴や目的をもって命名された可能性が高い。従い、現在の福井市藤島地区の地名由来は、上記で説明の通り、当時の重要な生活資源である樹皮(糸・紐・原始布等の繊維素材)が採取できた「藤のツル」の繁茂した島の特徴を示す目的、若しくは、その住民や支配者が領地として縄張りする目的で命名された「藤の島⇒藤島」が、その地名由来であると比定出来る。


2. 山形県鶴岡市に存在する「藤島」の地名由来を、「藤島の藤は当て字で、本来は樋島、川・堰で用水を渡す多くの樋があることに由来する」説(1998年)とか、「川の縁が微高地で島状であることから縁島とし、フチジマがフジシマとなり、佳字の藤を当てて藤島になったのが由来」とする説(2004年頃)を唱えられた郷土歴史研究家がおられる。

    但し、これ等諸説は、鯖江市が公表する地名由来の一説、湧水(沢)の小川(江)が多い土地=沢江⇒鯖江に変化した」との説(1995年)に似て、漢字伝来以降の近世の語呂合わせ的仮説で、縄文・弥生の古代人が名付けたであろう単純だが伝達性も良く、生活感や地域感に溢れ、歴史背景を秘め今に残る「古地名」イメージにも繋がりにくい。

    また、縄文海進ピーク時には、山形県の庄内平野は海水が流入し海湾入江であったことがP/Cソフト「スーパー地形・海進シュミレーション」からも読み取れる。 越前の「藤島」と同様に、最上川の支流:藤島川沿いに形成された「藤の繁茂する島→藤島」が、地名由来であったと比定できる。 更には、庄内平野は、古代越前が本拠であった越の国の北限支配地であったことから古代の越前鯖江地区と酒田・鶴岡地区には、人的・文化的交流もあった筈。 

    もしかして、同じ地形の呼称が越前藤島から鶴岡藤島に伝搬された(若しくは、その逆の)可能性もあり、福井地区では発見できていないが、酒田鶴岡地区では、古代から「藤の木花」を愛でた古代歴史文化や痕跡が残っているのではと、興味深い。又、ルーツは「越前の白﨑」を名乗った酒田の豪商越前屋白﨑五郎衛門家の存在も意義深い。


一方、鶴岡市の広報によれば、1992年以来、鶴岡市の藤島地区では「日本一ふじの里づくり」が策定され、「ふじロード」や藤島体育館周辺の公共施設に藤を植樹するとともに、新築世帯に藤の苗をプレゼントする等、藤の普及にも取り組んだ。その結果、2000年度の調査で藤島の世帯の半数以上に藤が普及された事が判明。それを受けて「藤の普及率日本一」を宣言し、以降毎年5月上旬には「ふじの花まつり」が開催さる等、藤の花を、街を挙げて愛でる文化が根付いている模様である。 しかしながら、縄文海進時代発祥の「古庄内湾」の存在と、藤島は、縄文庄内漁民の生活に必需の海水に強い繊維素材「藤ツルの繁茂する島」に由来する古地名との認識は藤岡市には無さそうである。


3. 関西地区にも「藤」を冠する地名や藤の名所が存在する。 

   藤井寺市には、藤棚で有名な井寺(フジイデラと呼ぶ)があり、毎年4月に行われる「藤まつり」のシーズンになると多くの観光客が見物に訪れる一大イベントとなっている。 同地区には、地形と伝承から読み取れる藤に因む古地名「藤井寺」「藤が丘」が今に残されていると共に、古市古墳群や内陸部にも拘わらす縄文海神神道が創祀起源と比定できる金刀比羅神社も、葛井寺の近隣地区に鎮座しているところから、縄文海進時代には、漁労民集団が暮らしていた証の一つとも言える。

縄文海進時代には藤井寺地区は、古河内湾の南端高台にあり、奈良湖(湾?)に繋がる峡谷「亀の瀬」(古大和川)の河口に位置し、福井市の古九頭竜川河口の松岡・丸岡地区の古代地形に似ている。

「葛井寺」も、素直に読めば「クズイ寺」と呼べる。従い、有史以前の古代には、藤井寺地区は、藤ツルに加え、クズ井は、クズの豊作地でもあった地名由来とも言える。 クズのツルは、糸・紐・縄・篭や古代布の繊維素材と重用された筈だ。 更には、クズの若ツルや根は、食料や薬品としても採取された程に古代の生活必需品であった。 左程に、「葛」を冠する地名や、「葛餅」を地場産の伝統銘菓とする地域はあちこちに存在する。 

   大阪市福島区野田近辺(春日神社周辺)は、日本の固有種フジの標準和名「ノダフジ」発祥の地と言われている。平安時代末期辺りから「野田洲」と呼ばれた島には「野田の藤」が繁茂し、その美しさで知られた。 江戸時代には「吉野の桜」・「高雄の紅葉」と共に「三大名所」と言われ「野田の藤」のお花見が盛んであったとの伝承・史料が残る。 しかしながら「野田の藤」は、戦禍に見舞われその華やかさは戦後消滅した。  

1990年開催の花の大阪万博がきっかけに、歴史ある「野田の藤」は、区の花に指定され、区役所、区民と大阪福島ライオンズクラブが一体となり、往年の如く、藤の花が咲き乱れる街つくりに、根気強く注力結果、区内各所で見事に「のだふじ」を甦らせ、今日では、地域挙げての「のだふじ祭り」や約29ケ所もの名所で構成された「のだふじ巡り」の開催で、見物客で賑わっていると。

ネット検索で調査する限りにおいては、「のだふじ」の歴史は、上記の通り、平安末期のふじのお花見発祥の地が始まりで、それ以前に関しては言及がない。 但し、「のだふじ巡り」の藤棚鑑賞スポットの一つである古社「野田恵比寿神社」の境内には、「金刀比羅神社」も鎮座している。 また、梅田のお初天神にも立派な「金刀比羅神社」が鎮座している。 もしかすると、藤ツルが繁茂した「野田洲」と呼ばれた島は、河川が形成した沖積層中州島では無く、縄文海進時代以前から存在した、洪積層断崖台地が、縄文海進により海湾に浮き出た洪積層の島状となり、その島には、自然自生の藤ツルが繁茂し、漁網作り素材に最適の藤ツルを求め、漁労民集団も住み着いた可能性がある。 即ち、「のだふじ」の歴史も、縄文海進時代から、海水に強い藤ツル樹皮から繊維素材採取を目的として栽培され始めた約6千年前に遡る悠久の歴史ありと、サバ読みも出来るのである。

 

4. 藤棚で有名な花の名所といえば、1997年にオープンした「あしかがフラワーパーク」が挙げられる。 年間でおよそ150万人もの来場者を集めるこの公園では、4月中旬~5月中旬にかけて開催される「ふじのはな物語」のお祭期間中は、臨時列車が増発されるなど、藤棚の藤の花がインスタ映えする観光名所として活況を呈している。

また、この地域には、藤を冠する地名2ケ所が存在する。その一つ、群馬県藤岡市では、1969年に藤の花を藤岡市の花に認定し、その藤をテーマにした公園「ふじの咲く丘」を造営し、毎年藤の花まつりを開催している。 近隣の栃木市にも藤岡町藤岡を称する地名が存在しているが、いずれも、近世に「富士山」に因み命名された地名であるとの説が主流で、縄文海進時代発祥の「藤の繁茂する岡」を示す固有の特徴を示す古地名由来であるとの解説は見当たらない。

しかしながら、この地域は、越前地区や庄内地区と同様に、縄文海進時代には、海水が流入し形成された奥古東京湾の北限湾岸地区である。 周辺には貝塚遺跡も数多く発掘されているところから、漁網を使った漁業も盛んであったと類推できる。 従い、縄文人の生活必需品であった藤糸網、藤縄、藤紐、藤糸に藤布の古代着や漁網作りの為に、海水にも強い藤ズルの栽培・採取が出来た豊かな丘陵地を、その特徴を示す固有の地名として「藤岡」と呼んだと比定できる。 更に、群馬・栃木の藤岡地区の「藤ズル」や「楮(←結城?)」等を原料とするの古代繊維産業は、中・近世に至り、絹や綿を原料とする繊維産業に進化して、古地名「藤岡」と共に、今に残されたとサバ読み仮説を立てることもできるのである。


5. 縄文海進時代の恐らく4千年もの期間、穏やかな海湾入江であった鯖波・鯖江地区は、東シナ海海洋文明交流圏にも属し、高度な越前縄文文化が発祥発展した。 鯖波・鯖江中心とする古奥越前地区では、縄文(海神)神道が興ると共に部族(国造り)意識が高まった。 海退期の縄文後期に入ると高地部の鯖波峡湾が鯖波谷底平野に変化し、鉄器・紙等の物作り文化と共に、稲作農耕発祥・発展の地となったことは第13話でも解説の通り。


その後、縄文海退の北上に伴い、弥生時代から古墳時代にかけ、物作り文化と共に稲作農耕も、南の高地部の古奥越前地区から、北の低地部中州島であった藤島地区を中心に現在の坂井平野地区に変遷拡大した。 この結果、米の収穫量は著しく増加し、飛躍的な人口増加をもたらすと共に、支配層も勢力を拡大し、徐々に富国強兵な古代王権国を造り上げたと比定できる。 

    因みに、藤島町には、高柳縄文集落遺跡、林・藤島弥生遺跡や藤島城址が遺されていて、縄文時代から多くの越前人が住み始め、その後の支配層が城塞を築ける程の古九頭竜湾・湖に浮き出た洪積層微高地の広大な島状の土地であった事が窺える。又、藤島地区から望める東側、松岡~丸岡の東側後背山頂には、古九頭竜湖を眼下に取囲み、王権国家の権勢を誇示するが如きに、多くの古墳群が存在している。 これ等古墳群の存在は、3~5世紀にかけ、越前王権族の支配地が、農耕民と共に南の越前地区から北の藤島・丸岡地区に移動・拡大した証でもある。


6. 第26代継体天皇(男大迹王<おおどののおう>450?~531)を輩出した当時の越前王権も、豊かな穀倉地帯に変貌した藤島地区と住民・部族も配下に治め、日本全国屈指の権勢を誇った大豪族であったに違いない。 

当然の事乍ら、ヤマト王権を奪取継承する為には、男大迹王権生え抜きの部下である大勢の軍師・神祇官・武者そして配下の首領等々を越前から引き連れての軍行、大和入りであったであろう。 更には、その後の大和朝廷には、多くの越前ゆかりの人材が任官登用され、その子孫も、先祖の出自「越前は藤原」の誇りを引き継ぎながら奈良や京都の都に残った筈と仮説をたてることが出来るのである。 

    「藤島」の地名初出は、1183年に源義仲が藤島七郷を平泉寺に寄進したことが「平家物語」に記述されている。又、藤島の地を名字とするものは平安末期からみえ、藤島左衛門助延(篠原合戦1183年時代)や、鎌倉期の藤島三郎の乱が「吾妻鏡」(1300年頃編纂)に記述されている。 しかし、越前における地名「藤島」や「藤原」は、鯖が獲れた「鯖波」「鯖江」の古地名と同様に、「藤の若ツル」の産地を示す固有の地名として、縄文時代には、既に実存したと比定できる。 藤ツルから採取できる蔓や樹皮は、縄文・弥生越前人にとっては不可欠の塩水に強く、農工具、篭造りや、また、樹皮からとれる藤糸は、野良着や漁網・漁具造りの繊維素材として重宝されたことは言うまでもない。また、秋にはそら豆の如きにたわわに実る藤の実も、椎の実等ドングリ類や葛の根等と同様に、貴重な食糧源であったと比定できる。


7. 「藤原」の姓は、中臣鎌足が大化の改新(645年)の功により、第38代天智天皇(626-672)から賜ったことに始まると言われている。 一方、中臣鎌足のルーツは、『藤氏家伝』によると、大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)が出生の地であるところから、藤原の姓は地名由来で、その地名たる藤原京(694-719)は、藤の野原であった特徴を表した地形由来との解釈もある。

しかしながら、藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、「日本書記」では、京が「新益京(あらましきょう)」、宮が「藤原京」と呼び分けられていることから、藤原京の「藤原」は、地名から来たものではなく「藤原氏」から来たものとの説もある。又、“中臣”は姓(かばね)であり、原義は「神と人との中を取り持つ臣」の意味で、この神祇職を担った氏族の職名に由来するとの定説もある。


8. 藤原氏一族は、奈良時代から平安時代にかけ朝廷内で権勢を極めると共に、この期間中、越前の国司職もほぼ独占し、越前国内の多くの荘園が藤原氏の支配下であった程に、越前との繋がりは奥深い。 因みに、福井市、坂井市とあわら市の平野部には、藤原氏ゆかりの「春日神社」が70余社も存在し、藤原氏族の権勢が及んでいたことを示している。

その背景には、鎌足の祖先は、男大迹王のヤマト王権継承の軍行に臣従し貢献した越前は「藤島」⇒後に「藤原」出身であり、「卓越した知識と外交力を具備した軍師・神祇官系の姓:中臣豪族」であったに違いない。 そして、その子孫や、その後、朝廷に任官した越前人達は、自身のルーツは、男大迹王、継体天皇と同郷の「越前は藤原の中臣、或いは、藤原の某」と、誇らしげに語り伝えたことは想像するに難くない。当然の事乍ら、中大兄皇子(後に天智天皇)も、越前は藤原が出自の祖先、男大迹王から約150余年の直系5代目であったことは元より、その臣下の鎌足の出自も、越前は藤原の豪族系、中臣氏一族であった可能性は非常に高い。 更には、鎌足は大化改新に貢献した褒美として、高志国は藤島の藤原を拝領し、既に支配していた領地の地名から、藤原の氏名を授かったとの仮説も成り立つのである。

    そんな鎌足家の「ファミリー・ヒストリー」を汲んで、天智天皇は自身の祖先継体天皇出自の地でもある「越前は藤島発祥の藤原」の氏名を、権威付ける意図を持って、天皇の名のもとに、大化改新に貢献した褒美として公的氏名「藤原」を、忠臣 鎌足に授けたものと、サバ読みロマンを物語ることも出来るのである。  即ち、「藤原氏一族のルーツは、越前の藤島」である。      

   このサバ読み談義の筆を置きながら、ふと思った。 越前を象徴する花は、「越前岬の水仙」も然る事乍ら、6千年余の悠久の歴史を秘めた「藤島の藤の花」ではなかろうか? 

   この秘めた歴史ロマンを「見える化」して、「古代歴史に裏打ちされ、世に誇り語れる観光コンテンツ」に仕立て上げるために、越前のまほろば「藤島」の適所に、「あしかがの大藤だな」に勝るとも劣らない日本一の藤棚公園を年月をかけ造営すると共に、松岡・丸岡の後背山頂に樹林で覆い隠され巨大だが潜むが如きの古墳群を、藤棚公園の背景として、また新幹線車窓からも眺望できる様、先ずは樹林を伐採して「見える化」してはどうか? 更に、藤島神社や春日神社群の境内にも一様に藤棚を設置して、その季節には「藤島の街々」を挙げての「越前 藤の花まつり」を開催し、ジャスミンの芳香漂う藤の花を愛でながら、男大迹王と奈良・平安の藤原氏一族を偲び、古を想うのも壮大で夢がある筈と。。!                

                            === 完 ===            

泉州 閑爺 2023年3月24日

        (2024年4月24日第17話内容一部追加・改訂)   


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