top of page
執筆者の写真泉州 閑爺

第14話 古地名「白崎」が物語る古代歴史

更新日:2023年5月11日


越前市の山間に忽然と残る地名「白﨑」は、縄文の古代には、南条硅石質の岩壁が白色に輝く海に突き出た岬であった地形由来であることは第7話でも説明の通りである。 越前地区に残る不思議な地名「関の鼻」「松ヶ鼻」「大塩」「白﨑」に「杉崎」に関し、多くの知己や地元ご関係者にその地名由来をあたってみたが、残念ながら、確かな見解をお持ちの方には、まだ出会えてはいない。 しかしながら「白﨑」の地名由来をネット検索結果、「白﨑」が物語る古代歴史が以下の通り見えて来る。


1. 名字由来net等で、ネット検索した範囲では、「白崎」と呼ぶ地名は、全国にたぶん7ケ所しか存在しない。 それ等には、②和歌山県の万葉の昔からその美しさで「白崎」と呼ばれた白い石灰岩の白崎海岸、③大村湾に面した長崎県西海市西彼町白崎郷(多分、シラスの砂州で形成された小岬)と④瀬戸内海に面した下関市白崎には白崎神社、内陸部の⑤大隅半島鹿児島県鹿屋市白崎町や⑥新潟県東蒲原郡阿賀町白崎がある。また、能登半島輪島市には「白﨑」と呼ばれる現在も海に面した小岬が存在する。

    これ等、海から遠く離れた内陸部に存在する⑤ ⑥ の「白崎」は、越前市の「白崎」と同じ様に、縄文海進時には河川流域に海水が逆流し溺れ谷の峡湾が形成され、海湾入江に露出した白色の九州地区に多いシラス崖石灰系堆積岩の断崖小岬、若しくは、河川の蛇行が形成した自然堤防の白砂台地であった地形由来の古地名「白崎」であると比定できる。


2. 越前市の白崎地区は、後世に命名された筈の大塩保(⇒王子保)と標高的にほぼ同じレベルにある。 紀元前4000年頃は、現標高から▲約33mの河岸段丘下部面辺りまで、縄文海進時の南条硅石質の南条硅石質の南条硅石溺れ谷「鯖波峡湾」で覆われ、集団漁労や製塩を主な生業とする海辺であったと比定出来る。 

    輪島市にある小岬「白﨑」付近の海岸縁には「揚げ浜式塩田」が今も点在し地塩が造られ販売されている。考古学調査によると、能登半島の製塩の歴史は約2千年前に遡り、古代から製塩が盛んに営まれていたと<能登の里山里海>。 越前の「白﨑」と「大塩保(村)」の縄文海進時代をイメージできる輪島市白﨑の景観と製塩の歴史である。

その後、約3500年もの長い歴史の中で、浸食土砂による沖積層は徐々に成長し海退が進み始め、大塩保と白崎地区は、紀元前約350年頃には陸地化したと比定する。

そして、標高的に低位に位置する北部の「鯖入江」や「古九頭竜湾」も、縄文海退に伴い徐々に陸地化し、古墳時代に入ると古九頭竜湾地域も湖沼地帯から、水稲農耕の適地に徐々に変化した。 

    海退後の鯖波から白﨑地区の谷底平野(以下、「鯖波谷底平野」)部は、北側にまだ海であった鯖入江に接すると共に、適度な斜傾を有し水利に恵まれ、村落集団での居住環境も良く、また畑作や水稲農耕文化が発祥・発展しやすい地形の筈だ。 海退後の鯖波谷底平野に住む越前縄文人は、狭いながらも居住と農耕に適した地形的環境と、海湾時代に渡来した大陸文化の影響を受け、域内の「平吹」や「鋳物師」地区で、その地域の特徴を古地名として残した程に、逸早く青銅・鉄器生産が発祥したと推定できる。

    その様な歴史背景から、鯖波谷底平野部に住んだ越前縄文人は、土木工事に最適な鉄器農具等を使用し、治水・水耕知識を持ち且つ牛馬を使役する稲作農民へと進化したと思われる。 

また住民の一部は、古代「塩の道」の要衝宿駅での珪石石器(石鏃、石斧等)に始まり、辰砂(丹朱)、青銅・鉄器や海産物等々の物品取引・物流支配層(商民)にも変貌したとサバ読みできる。


3. 名字は、自分の所領や出身地である地名を名乗ったことが起源と言われる。 また弥生時代以降、集団生活の中で、王族・庶民にかかわりなく、部族や血縁集団を表す「氏」や役割分担を表す「姓」が、政策的に名付けられ、名字として伝承されたとも言われる。因みに、織田信長も、織田家祖先の出身地の地名、福井県越前町の織田を名乗った。

    一方、「白崎」の地名は、全国に約7ケ所に存在する。 また、近年の調査結果では、「白崎」を氏名として名乗る人々は、人口総数約7,700~8,300名で、内、福井県人が約2,500人と全国最多で約30%を占めている。従い、殆どの「白崎」のルーツは「越前の“白崎”」を暗示させ特徴的である。 即ち、「越前の白﨑」は、弥生時代に遡り出身地として名乗るに誇らしい何らかの特徴を有した地名であったに違いない。

4. 福井県内では、白崎姓を名乗る人口分布は、小地域単位で鯖武盆地地区に分散しながらも、福井市の高木と河合鷲塚地域に計260名と拡大分布してる。

   縄文海退が先に訪れ水田農耕開拓では先駆けとなった白崎地区の農民が、弥生後期から古墳時代にかけ、開けた広大な福井平野の古九頭竜川沿いの微高地「高木」地区へ、稲作農耕開墾の新天地を求め移住がなされた痕跡が今に残った証でもある。 


    縄文時代から古墳時代にかけての越前古代人の生活環境の変遷と、支配層による海退後の海湾跡地への農耕領地の拡張戦略が、これまた暗示的に「白崎」氏名分布の形で今に残されているとも言える。

因みに、古代王権国の存在を示す大型古墳の造営は、王山古墳群(1~3世紀)に始まり、長泉寺山古墳(3世紀後半~4世紀:前方後円墳)、お城山古墳(4世紀後半:前方後円墳)、手繰ヶ城山古墳(4世紀後半:前方後円墳)から六呂瀬山古墳群群(4世紀後半~5世紀前半:前方後円墳2基他)へと変遷した。 縄文海退に連動して、農民の動きも、稲作農耕の拡大も、そして、支配層と古墳造営場所の動きも、高所から低地へ、南から北へと移動し越前の古代歴史の変遷を暗示している。


5. 白崎姓が、日本海沿いに、函館、青森、酒田、新潟の遠方に分布するのも興味深い。  

酒田の豪商 越前屋 白崎五郎衛門家は、越前国白崎村をルーツとし、酒田の豪商として財を築くと共に、地域の名士として消防団や医会所を創設し酒田市の発展に貢献した。 大正時代に建設された酒田市唯一の木造洋風建築の「旧白崎医院」は、観光施設として今に今に残されている。

    白崎姓のこれ等地方都市への分布は、当時に於いて誇り語れた自身のルーツ「越前の白崎」を姓に名乗り、江戸初期頃から発展し始めた「北前船」で、一獲千金を狙う仮称「越前白崎商人」一族によるものが大半と思われる。

    これ又、縄文起源の集団漁業に製塩業と、その後に繋がる「古代“塩の道”」の要衝宿駅となり「塩や鯖等海産物の物流(⇒鯖街道)」を支配したであろう「古代“越前白崎商人”」の伝統と気質が、江戸時代の越前廻船問屋商人達にも引き継がれていた証であると、「白崎」縁の筆者の我田引水ではあるが、サバ読み歴史ロマンを物語ることも出来る。              以上



                      <第15話に続く> 泉州 閑爺

                    <概要・目次に戻る> 


Comments


bottom of page